精神科看護師が本音で話す|#1 身体拘束と隔離による心の傷

精神医療 精神科看護師
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何から話そうか。

どう伝えようか。

とてもむずかしい。

むずかしく感じてしまうのはなぜだろう。

思っていることを、ただ話せばいいのに。

 

読んだ人が極力傷つくことのない言葉を。

それでいて現場のことが正確に伝わる言葉を。

一医療者として伝える上で、他の医療者の想いを踏みにじることのないように。

個人情報には十分に配慮して。

いってしまえば、患者の性別を伝えるだけでも断片的な個人情報にあたる。

どう伝えれば、どこまでなら一つの事例として伝えてもよいのか。

そんなことを考えていると、伝えたいことは山ほどあるのに口をつぐんでしまう。

 

これが他の診療科だったら、ここまで臆せずに伝えていたかもしれない。

精神科における偏見は、他でもない、精神医療に携わる医療者が生み出してしまうことも少なくない。

わからんでもない。というか、とてもわかる。

感情的に伝えたくなる出来事も珍しくはない。

「死ね・殺すなどの暴言を吐かれた」「唾を吐かれた」「物を投げられた」「引っ掻かれた」「蹴られた」「殴られた」「首を絞められた」「警察に通報するほどのことがあった」「殺人犯と関わることになった」……

これはどれも他人ごとではない。

でも、そう伝えてしまうと「やばい人たちの集まりじゃん」という声が聞こえてくる。

精神科で働いていると、そう言われることも珍しくない。

でも、そうではないんだ。

いや、うーん。言葉に迷う。

「こわい」「仕事でなければ関わりたくない」と思う人がいることも確かだ。

けれども、そう感じざるを得ない人には、悲痛な生育歴があることも多い。

自分は運がよかったのだ、人に恵まれなければ同じ状況になっていたかもしれないと、他人ごとではいられない。

※上記のような他害はごく一部ですよ

※とはいえ、現場では決して珍しいことではないんです

※一部分だけ切り取らず、本当はその背景までお伝えしたいのですが、個人情報の関係で…

と、弁明じみた注釈を数行ごとにいれたくなってしまう。

 

こんな具合で伝え方に悩み、結局口をつぐむことが多かった。

それならオブラートに包んで話そうかと思うと、今度は本音が伝わりづらくなる。

検索したら出てくるような、誰でも話せるような一般的なことを伝えるのであれば、それはもうわたしでなくてもいい。

 

この10年ほど、精神医療の現場のことを恐る恐るSNSで発信することはあったが、もっと広く、残る形で伝えたいと思った。

残すというのは、怖いことだ。責任が伴う。

それでも昔よりは、幾分かうまく伝えられるようになった気がする。

批判がくることよりもなによりも、無反応が、読まれないことが一番こわい。

そう思うようにもなった。

無理にコメントやリアクションをする必要はありませんが、どうか、こんな想いが世界のどこかに漂っていることを知っていてほしい。

 

この先で伝えることが、本意ではない伝わり方になってしまわないか、という怖さもあります。

だから、はじめにこれだけは伝えます。

 

わたしは、身体拘束や隔離をはじめとする行動制限の最小化を願ってやみません。

その上で、時としてそうせざるを得ないことがあるとも感じています。

実際に治療上の行動制限で心の傷を負った方に、何を伝えるべきか言葉にできませんが、伝えたい想いがあります。

それが謝罪なのか、弁明なのか、うまく言い表す術を今はまだ持ち合わせておりません。

そして、治療に携わった自分自身の心の傷と、向き合う場がほしかったこと。

同じように心の傷を負った、現在進行形で負い続けている医療者が、感情を吐露できる機会を作りたかったこと。

こんなところでしょうか。

 

不格好ながらにも、そろそろ本音を話してみようと思います。

 

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身体拘束 隔離

こういう話をしようと思うと、まず

「そもそも身体拘束・隔離とは」

「どんな法律に基づいて施行されているのか」

「医療者はどんな風に観察しているのか」

など、事細かに伝えようと思ってしまう性分だ。

というか、この大前提を共有しておかねば、伝えたいことの1割も伝わらない気がする。

 

それについては、精神科医の松崎先生がわかりやすくお伝えくださっているので、こちらをご覧ください。

身体拘束と隔離について何となくイメージがわいたところで、本題に移ります。

 

***************

 

2016年4月、看護師1年目。

希望した大学病院の精神科救急病棟に配属された。

「精神科スーパー救急」と呼ばれることもある。

他の診療科の医療者から「スーパーってなんやねん」と笑われたこともあるが、実際の現場を味わうと紛れもなくこれは精神科スーパー救急だ。

 

精神科救急というのは、身体疾患の治療でいうところの「オペ室」「ICU」のようなイメージだろうか。

実際に、m-ECT(修正型電気けいれん療法)という、手術のような治療を行うこともある。

精神症状の増悪や、自傷他害の恐れがある場合に、24時間体制で対応する病棟。

緊急時には、精神保健指定医(経験を積んだ精神科医が、一定の要件を満たして取得する公的資格)による診察が行われ、措置入院や医療保護入院といった、本人の同意を必要としない対応がとられることもある。

 

実際に経験した一例を挙げると

・深夜に大声で木刀を振り回していたところ通報され、警察で木刀を回収されたのちに緊急入院

・趣味道具をとりあげられた怒りから家族を殴って骨折させ、警察を介して深夜に緊急入院

・他害のリスクがあり、「前回入院では医療者の首を絞めたことがある」の情報とともに緊急入院

・違法薬物による激しい興奮状態で、壁に頭を打ちつけている国籍不明の方の緊急入院

・切迫した希死念慮があり、縊首を試みる方の緊急入院

・殺人犯の精神鑑定目的の入院

と、このようなケースで精神保健指定医が「自傷他害の恐れがある」と判断した際に、身体拘束・隔離と呼ばれる治療が慎重に行われることがある。

他の代替案がないときにやむを得ず、最終手段として、少しでも早期に解除することを考えながら、一時的に、慎重に。

少しイメージがわいただろうか。

これが「ごく一例」なのだ。

1ヶ月もあればこのような出来事が度々舞い込んでくるから、病棟から出ると平和ボケしてしまう。

非日常的なことが日常になっていて、日常ってなんだっけ、と。

夜勤明けに病棟の外に出ると、あまりにも空がきれいなもんで、絵に描いたように思える。

自分が今現実にいるのか、夢の中にいるのか、危うくわからなくなりそうだ。

 

一人ひとりの人権も、かつ命も守らねばならない環境で、この身体拘束・隔離をどう減らしていくか。

それがどこの精神科病棟においても課題であり、世間の関心度も高く、雑誌やテレビで度々特集されている。

 

身体拘束や隔離を経験した方の悲痛な声を聞くたびに、自分や同僚が責められている気持ちになる。

そりゃそうだろ、だってあんたらがやったんだから。

と言われれば、返す言葉もない。

でも、やりたくてやっているわけではない。

そりゃそうだ。やりたくない。

それでも、そうせざるを得ない現状もあるというのは、実際に目の当たりにした人でないと信じがたいかもしれない。

 

***************

 

夜勤中、時間帯によってはたった2名の看護師で、50名近く入院患者がいる病棟で、前述したような重症な方が多数いる病棟で、身体拘束や隔離という最終手段を用いずに、ひとりも死ぬことなく、そこにいる全ての人の命を守れるのか。

できる方がいたら、お手本を見せていただきたい。

これは決して揶揄ではなく、そんな方法がどこかにあると信じたいし、それを探して学び続けることには変わらないが、それだけ難しいという意味合いで。

雑誌やテレビの「身体拘束ゼロを実現した!」といった類の見出しには、希望を感じると同時に、心を握りつぶされる。

「精神科救急の現場で、一時的に身体拘束がゼロになった時期がある」という話ではあるだろう。

一時的にであれば、自分の病棟でもそんな時期があり、職員一同でよろこんだ憶えがある。

 

それが叶った一例を紹介していると思えばいいのだろう。

それでも、

「自分たちがあれこれ試行錯誤して、それでもどうにもならず行わざるを得なかったあの身体拘束や隔離は、なんだったというのか。それすらもゼロにできた可能性があったというのか。それでは、自分たちが行ったあれこれは、治療でもなんでもなくなってしまうのではないか」

と胸が痛む。

 

精神保健福祉法に基づいた精神保健指定医の判断を信じ、少しでも行動制限を最小化するために日々カンファレンスをくり返し、薬物療法や精神療法や環境調整の効果にすがりながら、時期を待つ。

身体拘束や隔離などの行動制限は、決して、制裁や懲罰あるいは見せしめのために行うものではない。

とはいえ、対話による精神療法といっても効果的な時期というものがあり、今まさに医療者の首を絞めてくる人を相手に、対話だけではどうにもならないこともある。

危険と隣り合わせな状態で、それでも身体拘束や隔離をはじめとした行動制限を、あらゆる工夫を凝らして減らすよう尽力する。

「医療者の首を絞めたことのある患者さんは、男性看護師と男性研修医の計4名付き添いで、どうにか20分だけでも隔離を解除してシャワーを浴びられるように、医師に掛け合うことはできないか」「そんな日が週に1回、いや5日に1回調整できるかどうか…」「浴室までの移動の注意点は…立ち位置は…背を向けずに…」「なんかあったときはこう連絡を取り合って…」「浴室にあるアレは危険物になり得るので先に片付けておこうか」「先生、紐類は危ないから首にかけてるPHSは必ずはずして、できれば先の鋭いペン類もナースステーション内に置いていきましょう」

こんなクリエイティブな現場が他にあるかって思いながら。

教習所の「かもしれない運転」をはるかに超える、「かもしれない事故」を想定して動く。

 

もう、そこまでいくと保清どころじゃない。

そうまでしても、本当に今、このタイミングで入浴する必要があるのか。

入らないことによる心身への影響や、人権はどうなるのか。

諸々を天秤にかけた上で、日々の介入の一つ一つを慎重に決める。

苦しい。拘束も隔離も、本当に苦しい。

実際に経験した方からは、「医療者がそんなことを口にするな」と言われるかもしれない。

それでも、やりたくないのにやらざるを得ない現実がある。

 

じゃあ、身体拘束や隔離について定めている、精神保健福祉法に文句を言えばいいのか。

マンパワー不足でそうせざるを得ないなら、国に文句を言えばいいのか。

責められる人がひとりもいないのが、やるせなくてたまらない。

 

法律に則って、経験を積んだ精神保健指定医の慎重な判断のもと、施行される。

他に代替案がないときの最終手段として、一刻も早く解除できるよう尽力することが、必要不可欠な治療である。

しかし、残念ながらニュースを見る限り、そうでない現場があることも確かなようだ。

そのことに憤りを覚える。

一人ひとりの人権も、そして葛藤を重ねて奮闘している他の医療者の想いも、踏みにじる。

そのような「治療ではないもの」に、憤りを覚える。

少なくとも、自分の病棟はそうではないと言い切れる自負がある。

 

でも、果たしてそうだろうか。

もし、自分の職場以上に行動制限を最小にできている職場があるのならば、ブーメランが突き刺さる。

そんな指標はないが、いってしまえば「行動制限を最小化している病棟ランキング第1位」の視点から眺望したら、すべて過剰な行動制限になる。

自分の病棟では、やれることを全てやっている。

そうは思っていても、結局のところ、自分たちが知っている範囲の工夫しか知らない。

 

***************

 

看護師4年目になるとリーダー業務がはじまり、自分が医師から身体拘束や隔離の指示受けをすることになった。

少しでもそれらを解除できないものかと、多職種で可能な限りの策を講じて提案し、主治医の意見を伺う。

それで実際に身体拘束や隔離を減らすことができた際には、達成感のようなものを錯覚した。

ああ、自分は行動制限を少しでも減らす精神科看護師になるんだと、目標管理シートに記載した憶えがある。

 

ある時期、自殺企図を理由に、身体拘束の治療がはじまった方がいた。

どのくらいの期間だっただろうか。

たしか2週間ほど経ったところで切迫した行動は見られなくなり、身体拘束が解除となった。

この「2週間ほど」というのも大変失礼な表現で、それが2週間だったのか、3週間だったのか、13日間だったのか、15日間だったのか、一人ひとり正確な日数を憶えていないのだ。

在職していた4年間で、何人のこうした治療に携わったのだろうか。

ほんとうに、もう、なんだろう。

一行書くごとに、感情が渋滞して先に進めない。

 

2週間ほど経ったところで目立った危険行動はなくなったものの、感情表出が少なく、嵐の前の静けさのような、何が起こるかわからない怖さがあった。

身体拘束や隔離と同じように、外出泊や面会なども精神保健福祉法に則り、病状によっては制限されることがある。

その方はなかなか外出許可がおりず、看護師目線では一度短時間で試してみてもよいのではないかと思っていたが、主治医のカルテを読むと慎重に進めたいことが伝わってきた。

わたしは全然わかっていないんだな、先生はやっぱりすごいや、と思った。

後日外出許可がおりた際には、首を切って出血した状態で帰棟した。

幸いにも、命ある状態で帰ってきた。

ああ、結果論なんだなと感じてしまったことを憶えている。

 

行動制限を解除したことで亡くなってしまったのであれば、もっと慎重に治療を進めるべきだった。

もっと早くに解除しても安全に過ごせたのであれば、過剰な行動制限だったと言わざるを得ない。

前者は最悪の事態が起こってからわかることであり、後者は当事者の主観によるものなんだろうか。

過剰な行動制限だったというのは、誰がどんな基準で判断するんだろうか。

 

滅多にないが、身体拘束や隔離を経験した方が

「あの時期のことは辛いなんていう言葉では言い表せないけど、それがなければ今ここに自分がいなかったことも確かで…」

と振り返ることがある。

それを聞いてどんな感情を抱くのが正解なのかわからないが、救われた気持ちにはなる。

あれは確かに意味をなす治療だったのだ、と。

 

***************

 

「行動制限最小化」に関する特集や論文を読むたびに、そこに自分たちの知らなかった答えが書かれていたらどうしようか、という怖さがある。

他に代替案がなく、最終手段として、慎重に、人権も生命も守ろうとしながら施行されてきた身体拘束や隔離の一つ一つが、治療ではなくなってしまうのではないかと。

そうなったときに、それは治療ではなく何になるんだろうかと。

怖くてたまらなくても、蓋をすることはできない。

 

学び続けることしか、考え続けることしか為す術がないから、この仕事を続けている。

あの日の答えは、未だにわからない。

 

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