児に育てられて|#1 子供と向き合うために、自分と向き合う。

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金曜日の21:40。

きょうは夫が子供二人(3歳娘、1歳息子)の寝かしつけをしてくれている。

夫婦ともに夕食を食べ損ねて、子供のあれこれをやっていたらこの時間になってしまったもんで、片や寝かしつけ、片やご飯を作り、寝かしつけが終わったら一緒に食べることにした。

 

ふるさと納税で届いた牛タン、白米、お味噌汁、明太子マヨネーズ入りのだし巻き卵、揚げ銀杏。

これを準備し終えてもまだ夫が戻ってきていないから、短時間でもと書き始めた。

…と書いたところで寝室から戻ってきたから、一緒にご飯。

食べ終える頃に、夫がスマホでTVerを流し始めた。

去年までよく一緒に観ていた、「上田と女が吠える夜」。

久しぶりだ。むずかしいことは何も考えずに、ぼーっと観たい。

と思うと同時に、どうしても書きたいことがあって今パソコンを開いている。

30分観たところで、ながら見、ながら書きにしようと思い、またキーボードにさわりはじめた。

 

現在22:10。

先におケツを決めておきましょう。23:30です。

テレビデバフがある中で、書けるところまで書こう。

 

きょう自分の外に出しておきたかったのは、3歳娘のこと。

いや、少し違うか。

育児の話でもあるけど、根幹は自分の物事の捉え方について。

わたしは今日、そこそこ落ち込んでる。

 

ここ数年で再認識したのは、自分が落ち込むとき、精神的にダメージを受けるときには、「恥」の感情が根底にあることが多い。

きょうは、保育園の先生からの助言で、「それはわかっててやってるつもりだったけど、はたから見ると不十分だったかなぁ」と落ち込むことがあった。

これは先生の伝え方に問題があったわけでも、内容が的外れだったわけでもなく、自分の捉え方の話で。

 

この3日間ほど、珍しく娘が大号泣して登園を嫌がるようになった。

理由を問うと「保育園でいやなことがあったわけじゃないけど、ママと遊ぶのが楽しくておうちにいたい」とのこと。

他に理由がある可能性もあるが、ひとまず言葉通りに受け取るとこんな内容だ。

疑うわけではなく、娘自身が気付いていないような、他の理由もあるかもしれないと思いながらも、愛らしくてたまらない言葉をそのまま受け取ることにした。

 

きょう先生から言われたのは、「娘ちゃん。ママがいなくなると、教室に入ってからはすぐに泣きやんで、案外けろっとしてるんですよ。泣くとママが少しでも長くいてくれると、学んじゃったのかもしれません」と。

なんていじらしいんだ。

そして、これはとてもよくわかる。

別物ではあるが、医療でいうところの疾病利得という言葉をふと思い出した。

「泣けばなんとかなる」「泣けばお母さんが助けてくれる」というのは、関係構築する上で大切にしたいことだ。

それと同時に「泣かなくてもお母さんは構ってくれる」「泣かないほうが両者にとっていいことがある」とも、いずれ気付いてほしい。

 

…というのは大人だから言えることで、娘はまだ3歳7か月だ。

ママとあぞびだいよぉぉぉおおお

だよねぇ。お母さんも本当はお仕事に行かないで、おうちで一緒に遊びたいよ。おうちで何したかったの?

ずっとぎゅーしたいよぉぉぉ

それは嬉しいなぁ。お母さんと一緒だ。今はずっとは難しいけど、10秒ぎゅーしてからバイバイしよっか

ずっとがいいよぉぉぉ

と、こんな具合。

 

どうだろう。みんなどうしてるんだろう。

あまりに長引かせてしまったら、自分の仕事に間に合わなくなり、先生の仕事が滞り、他の園児が不安にもなるだろう。

時折時計を見つつも、正確な時間までは覚えておらず、体感としては3分ほどだった。

「泣いたらゆっくりと話を聞いてもらえる」

「毎朝登園時に泣けばいい」

というのが常態化するのは誰にとってもいいことではないが、普段はなかなか見られない娘のサインに、今は向き合う必要があると感じた。

そもそも、そんな計算的に泣いているわけではなく、純粋にさみしいのだろう。

母が去ってからも、けろっとしているように見えて、頑張ってこらえているのだろう。

母としてはそう思っている。

もしそうでなければ、とんでもない大女優だ。

それはそれで可愛らしくてたまらない。

 

しっかりと話を聞くところは聞きつつ、今できることはここまでだと枠組みを設けつつ、娘にも多方面にもベターな選択をするほかない。

このあたりのさじ加減を、自分としてはこれくらいがちょうどいいかなと思って実践したところ、先生から次のお言葉が。

「娘ちゃん、ママがいなくなると、教室に入ってからは案外けろっとしてるんですよ。泣くとママが少しでも長くいてくれると、学んじゃったのかもしれません」

「パパのときは、もう少し距離をとっているんですよ」

「これをしたら行くって、お約束を決めるといいかもしれません」と。

 

そうやってたつもりだったんだけどなぁ。

この恥の感情は、どこから来るんだろう。

 

ひとつ思い浮かんだのは、距離が近すぎる患者さんとそのご家族と関わった経験。

第三者目線で「かわいそうなのはわかるけど、家族としてもう少し距離をとってあげたほうが、お互いにとっていいのかもしれない」と感じることが、多々あったからではないだろうか。

人にはそんなことを思うくせに、自分もはたから見ると同じようなことをしている(のかもしれない)

これが申し訳なさや、認めたくない気持ちや、恥につながっているのか。

 

そこそこうまいこと育児してこれたのではないかと自負があったが、そんなことばかりではないと突きつけられてしまった気がした。

とにかく、恥ずかしかった。

娘が泣き止まないことの困惑や、泣き声からくる疲労。

もちろんそれもあっただろうが、うまくできている気になってた自分が恥ずかしかった。

今こうして書いていても恥ずかしい。

何が「そこそこうまいこと育児してこれたのではないか」だ、とツッコまれそうで恥ずかしい。

 

自分の恥の感情は、いつからこんなに生じるようになったんだろう。

いや、正常な反応ではあるけど、必要以上に感じてしまっているのではないかと思うときもある。

思えば、小学生のときにはもう失敗することが恥ずかしかった。

授業で当てられるとものすごく緊張し、全校生徒の前でピアノを弾いて失敗したときにも、周囲の反応を確認するのがこわかった。

 

少し話は変わるが、趣味の歌やピアノでライブに出演するときには、「あがり症」というアーティスト名を用いている。

自己紹介のような、言い訳のような、自分で暗示をかけてしまっているような、そんな名前だ。

どうしたら恥の感情を飼い慣らせるのか、昔そのことについて真剣に考えてみたけど、記憶を掘り起こしてみても見つからなかった。

忘れているだけで、きっと何か「これ」という出来事があったんだろうなと感じている。

 

対人援助職という仕事柄、どうしても自己分析をし続ける必要がある。

昔から、できれば蓋をしておきたい自分の醜い一面とも、向き合ってきたつもりではある。

非常にエネルギーが要る作業だが、そうすることで「ありたい自分」に近づけることが、楽しくもあった。

自分というものを言語化できるようになってきて、よくわかっているつもりになっていたが、まだまだ改善の余地が十分にある。

 

ということで、今年は掘り起こしきれていなかった自分と向き合って、自分も家族も、より大切にしたい。

 

加えて、こうして文章を書くときに、きれいな終着点をつくらなくてもよいと思えるようになりたい。

迷ったまま、感じたままを、滞らないようにひとまず出していく。

きょうはそれができただけでもヨシとする。

1ヶ月以上空いてしまったけど、久しぶりに書けてよかったね、自分。

 

娘、来週の登園はどうなるかなぁ。

まずは明日、早くおうちで遊びたいね。

 

 

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