息子(0歳クラス、現在1歳7か月)の保育参観があった。
5月以来、9か月ぶり。
いつもお世話になっている先生と、同じくお世話になっている保護者と顔を合わせて、1年をふり返った。
娘のときほど早くはないが、それでもできることが増え、入園当初から甘えん坊なところは変わらない息子が、いとおしく誇らしかった。
保育参観はほほえましい雰囲気で執り行われたものの、気を張っている自分がいることにも気づく。
というのも、ふだん送迎以外で息子と関わっている様子を見られる機会がない。
自分の言動のひとつひとつを、保育のプロである先生がどう感じているのか。
第61回宣伝会議賞のティップネスの課題、ファイナリスト作品の
『試着室で試されているのは私だった。』
をふと思い出した。
保護者である自分が参観しにきたつもりでいたが、観られているのは誰なのか。
いや、子と保護者と保育士、お互いにでしょと言われたら、本当にそうなんだけど。
先生は保護者がいる中でも堂々としていて、あぁ、ふだんもこう関わっているんだなぁと、頼もしかったし羨ましかった。
自分はというと、息子を気にしつつも”先生から見られている自分”にばかりベクトルが向いてしまい、自宅と同じようにはふれあうことができなかった。
周囲からどう見えていたのかわからないが、自分としてはぎこちなさを感じていた。
珍しく教室に母がいて、いつもにまして甘えん坊な息子に、どの程度甘えさせてあげようか迷った。
みんなとの遊びの最中でも隙あらば母の膝に座り込み、食事中も泣いて抱っこをせがむ。
先生「本当に甘えん坊ですよね」
母「そうなんです~。園でもこんな感じですか?」
先生「甘えん坊ですけど、こんなに抱っこ抱っこと強くいうことはないですね。家ではもっと甘えん坊さんなのね~」
母「へぇ!外ではがんばってお兄さんしてるんですね~」
なんていうやりとりをする。
自宅では時間と体力気力が許す限り、存分に甘えさせてあげているが、今は保育参観。
楽しく遊びつつも、ふだんの園での様子を知りたい気持ちもあり、なるべく手を出しすぎないようにも心掛ける。
が、度々泣いて抱っこをせがませる。
食事がはじまってすぐ、今ごちそうさまをしたらお腹がすくだろうにというタイミングでも、「もうママのおひざにすわるんだ」と言わんばかりに泣いて両手を広げる。
ちなみに自宅では、自由に降りられないハイローチェアに座って食事をとっており、手づかみと食具で一部自力で食べ進めることが多い。
もし自宅で同じ状況になっていたら、いったん抱っこして「なによ~もう、かわいいねぇ。どうしたのよ~。お膝に座って食べたかったの?いいよいいよ~」と言ったかもしれない。
あるいは、理由はわからないがイヤイヤしていたら、一度「めっ、食べなさい(キリッ)」と毅然とした態度で伝えてみる。
そうすると、(わかったよ…)という顔で食べ進めることがあることも知っている。
「手を出しすぎる親だと思われたくない」
「食べなさいと無理強いする親だとも思われたくない」
「自分が叱っている姿を先生には見られたくない」
そんな自分がいたようで、どう関わろうか迷ってしまった。
何度か覇気のない声で「ほら、食べなさい」と言いはしたが、本当に覇気がなかった。
「まだごはんの途中だよ~」
「もぐもぐしようね~」
「スプーンにのせてあげたから持ってごらん」
などと、ふわっとした口調で伝えるわたし。
いいからだっこしてってば、と言わんばかりに泣く息子。
そんな様子を見ていて思うところがあったのか、何の気なしに言ったのかわからないが、先生が
「ママもパパもほとんど怒らなそうですよね。いつも送迎のときの関わりを見てても思います」と。
先生が何を感じてそう言ったのかはわからない。
が、自分の中で「ちゃんと叱れない親だと思われてるのではないか」と変換された。
情けなく、恥ずかしくなった。
「たしかに、送迎のときはそうですよね!家では叱るときは叱りますよ~、ふふっ」
と伝えた。弁明するように伝えた、という感覚がある。
もちろん、実際に”ちゃんと叱れない親”だと思われている可能性も十分にある。
それと同じくらい、
「叱れないのではなく、叱らない選択ができる人」
「子供を感情的にコントロールしようとしない人」
と、叱らなかったことへの”否定”ではない可能性もある。
ただ結局のところ、自分が気にしていることに関連付けて受けとりがちなのが、わたしだ。
いつでも他者から評価されていると感じてしまう自分がいる。
見透かされている気がして恥ずかしくなる自分がいる。
ふだんは滅多に怒ることがなく、それでいて、必要なときにはちゃんと叱れる親だと思われたい自分がいる。
自分がこう関わりたい、ではなく、どう関わったらいい母だと思われるか、と考えてしまう自分がいる。
育児に限ったことではなく、自然体でいられないことが多い自分がいる。
先生の発言の意図や本心がどうのこうのではなく、その発言を通して”こういう自分がいる”と向き合う機会にするために、今こうして書いている。
「自分がどう見られるか」よりも、「今目の前にいる大事なわが子に、何が必要なのか」を真っ先に考えられる親でありたい。
なにがあってこんなに、昔から周りの目ばかり気にするようになってしまったんだろう。
その場にいたおのおのが誰かを観て、そして観られている保育参観だったように思う。
って、なに当たり前の話をしとんねん。



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